第3章 魅惑の歪正(わいせい) ずっと、ひっそりと隠れていた。 きっと、芽が出る事無く枯れる。 なのに、眩しい微笑みが照らす。 だから、生まれてしまったのよ。 そして、花が咲きかけた頃には、 なぜか、私を照らしてくれない。 だけど、枯れずに摘んでしまう。 いつか、思い出すのは貴女と私。 それは、眩しいほど綺麗な恋愛。 1 私は、ひとりぼっちだった。 クラスに友達もいる。会話もする。一緒に遊ぶ子も、休み時間に一緒に行動するグループもある。学校で独りになることなんて、そんなになかった。イジメられたり、無視されてりされることもなかった。携帯電話のアドレスには四十件ぐらいトモダチのメールアドレスがメモリされている。一日に何回もメールをやりとりするトモダチもいる。 でも、私は独りぼっち。 トモダチの話がまるで知らな国の言葉みたいに、よく理解できない。辛うじて聞き取れる単語からも、興味がわかない。カレシの話とかされても、他人の個人情報なんて、兄の自慢話と同じぐらいつまらない。時間と対象人物によって決められたように話しかけたり無防備に近づいてくる、トモダチというプログラムは、どうやら私には組み込まれていなかったから、素っ気ない人って思われているみたい。送られてくるメールは話し言葉、しかも暗号みたいで、文字ではなくて記号で書かれていて、送信相手の基本言語が分らない。やっぱり、外国語みたい。 私は独りぼっちだったから、誰かと一緒にいるのが苦手。 相手の顔を見て話す事も、聞く事も出来ない。半径三十センチ以内に人がいるだけで動悸が激しく打って、身体が触れたりするとパニックになってしまった事もある。実の兄相手でその症状が現れるから重傷なのね。高校に入学するまで、トモダチなんかいなかった、カレシなんて異次元めいている。 そんなんだから、色々と自分にとって不都合な事も沢山あった。もちろん、あのままだと社会に適合できなくて、自分の将来の選択しを無くしていくばかりだって思ったから、高校入学を機会に、私は普通の女の子に変わろうと思って、自己啓発に自己暗示、素人向けの心理学や哲学の入門書を読みあさった。勉強なのよね。 その成果が出たのか分らないけど、高校に入学してからは、今までみたいに不都合な事が減った。対人恐怖症みたいなのも、隠せるぐらいには改善されている。トモダチという関係も築けている。 概ねの目標はクリアした。後は最大の難関、カレシ作りだ。………そう、最大の難関なんだよね、これが。だって、私が通ってる高校って女子校だから………。何が問題かというと、男の人と知り合う機会が少ない。怪しい出会い系サイトに登録したり、合コンに行ったり、ナンパなんてする高等技術も勇気もない私。なんて無力……。 出会いがない、なんて嘆いていると、もう二年生になってしまった。受験が本格化して、カレシを作る時間が激減。もう、大学に入ってからでいいや、と思っていると、一筋の希望の光が降り注いだのよね。 私が大学受験するという事で、塾に行きたいと両親に相談した時、兄が家庭教師に、国立大の医学部に通っているという友人を紹介してくれました。兄の友人なんだからきっとオカシイ人だと思っていたら、本当にオカシイな人だった。でもそんな事を無視できるほど、かっこ良くて頭もよくて優しくて、素敵な人だったのです。その時ほど兄を尊敬した事はないでしょう。きっと最初で最後ね。 その人は、小鳥さんという名前で、宝塚の舞台が似合いそうな人です。週に三回ほど家庭教師をしてもらって、その時に少しづつ小鳥先生の好みとか性格とかさりげなく訊いて、兄からも沢山情報を貰ったり協力してもらったりして、確実に小鳥先輩のカノジョになるため、奥手で恥ずかしがりやな私は、恋愛の試練に挑戦中です。 その最中だった。 高校三年生。 桜の木に僅かに花が残っていた眩しい日。 私は手紙を貰った。 私の知らない、女の子から。 2 『籠井 夕(ゆう)さんへ。 はじめまして。 籠井さんは、私のことをしらないと思うけど、 私は、ずっと見ていました。 ずっと、憧れていました。 私と、友達になってください 羽井(はねい) ミズミ』 その手紙を読んでいる時、私は胸が窮屈で苦しくなるような痛みを感じた。なぜだか分らない。でも、嬉しかった。思わず笑ってしまう程、嬉しかった。 羽井ミズミさんは、この手紙を貰った時が初対面だった。きっと私とは違う科の生徒だからだと思う。 私はすぐに返事を書いた。ちゃんとレター用紙に手書きして書いた。それを持って、次の日の放課後に、羽井さんを見つけて、渡した。 羽井さんは、とても驚いたみたいで、目を猫みたいにまんまる見開いて可愛かった。私は手紙を渡す時に、 「いいよ。友達になろ」 羽井さんの顔を見て言った。 「あ、………ありがとっ」 羽井さんは眩しいぐらいの笑顔でした。 私はその時、羽井さんが他のトモダチとは違う気がした。 それが何なのか、気づくのはもう少し後だった。 私が返事の手紙を渡した次の日、羽井さんはまた手紙を書いて来てくれた。だから、私はその返事を書く。その繰り返しが、私達の間では当たり前の事になって、授業の合間の休み時間や昼休みに手紙を渡したりするようになった。手紙は授業中にノートと教科書に挟んでこっそり書いて。 そのうち、羽井さんは私の事をユウ、私はミズミと呼び合うようになった。 ミズミは、力強い眩しさを持っている人。さらりとしたショートヘアで、前髪に少し隠れた瞳が、とても力強く、純粋な輝きで私を見るから、私もなんだから暖かい気持ちになる。なんだか日向ぼっこをしているみたい。 始めはおどおどして子犬みたいだったけど、二ヶ月ぐらい経つと、カッコいいぐらい凛としたミズミが見えた。それがきっと、自然体のミズミなんだろうなって思えた。 ミズミと手紙をやり取りしたり、会って話したりしている内に、どうして私と友達になりたかったのかな、そんな疑問を持った。ミズミは誰とだって仲良くできそうだし、本当に一緒にいても嫌にならない不思議な雰囲気を持ってて、だからなんで違う科の私に、って思って、ミズミに尋ねたら、ちょっと恥ずかしそうに私の方とは違う方向を見ながら話してくれた。 「女子校ってさ、示し合わせたみたいにみんな群れで行動するでしょ。そういうのが、わたし、苦手で……、でもそうしないと孤立するから、無理して群れに馴染もうとしてたの、そうするしかないって思って。でも、ユウは違う。そういう群れと一線を引いてるっていうか、別に独りになって良いみたいな感じがしたの。それがすごくカッコいいなって思ったから………、わたしには真似できないって思ったの、だから」 話終えると、ミズミは、恥ずかしそうに私を見た。視線が合った、一秒にもみたな間。その時のミズミは、夕日の加護を一身に受けて、とても眩しく見えた。とても綺麗だった。 私はミズミが言うほど、カッコいい人間じゃない。ミズミが私にどんな幻想を混ぜて見ているのか分からないけど、私は、ミズミより綺麗じゃないというのを、その時感じた。 ミズミが眩しかった。 だから、私の日常の中でミズミの存在は大きくなっていく。ミズミと会う時、話している間、手紙を読んでいる時、ミズミ以外のことは忘れてしまう。 だから、学校から帰ってミズミの手紙を読んでいると、 「ユーウー」いきなり背後から恨めしそうな声をかけられて、 「わぁっ!」驚いて机に顔を埋めてしまった。 「もうっ、いつからいたんですかっ」 直ぐに顔をあげて振り向くと、今日は普通の服装をした小鳥先生が、キツネの形に折って手紙を興味深げに手に取って見ていた。 「手紙? 文通なんて古風な事が流行ってる?」 小鳥先生は椅子に座りながら、トランプを扇状に広げる様に手紙を眺めている。 中を見ないのは一応、プライバシーを知っているからだと思う。 「文通ってほどじゃないけど、授業中に手紙を回したりするようなものです。やったことないですか?」 「うん。そういうのって男子ってやんないと思うよ。それにやるなら携帯電話のメールで済むからさ。確実だし、早い」 「でも手紙の方が…、ほら、こうしてちゃんと残るじゃないですか、メールなんて直ぐに消えちゃうし、手書きだと暖かみがあるし」 「暖かみって……それって思い込みだよ。なにが違うの? 比熱? 密度? それとも熱伝導率? 膨張係数? 物理的に観測できないものは存在しないのと一緒だよ。それにね、手紙だってライターで簡単に燃えちゃうし、羊が食べたら終わりだよ」 「……先生。紙を食べるのは羊じゃなくて、山羊です」 「え、そうなの? ………へぇ、そうなんだ……」 本当に知らなかったのか、小鳥先生はなんども頷きながら、そうなんだ、と繰り返し呟いた。小鳥先生は、頭は良いのに、どんな人生を送ったらそれを知らずに生きて来れるの、と思ってしまうほど、常識的な知識が欠如している。兄曰く、生まれてきた星を間違えた、らしい。 「どんなこと書いてるの?」 「えぇっとですね……この本が面白かったよ、とか、明日体育でマラソンなんだよ嫌だよー、とか、明日の放課後にどっか寄ろ、とか……」 「へぇ………、相手って友達?」 「そうですよ。……………あっ、もしかして彼氏だと思ってました?」 「うん」 「違いますよー」私は先生が好きなんですから、とまだ言えないのが辛いな……。 「そうか。………ユウちゃん、最近雰囲気が変わったからもしかして、そうなのかなって思ったんだ。そっか、友達か。気があう子なんだね」 「はいっ。だってその友達……ミズミって言うんですけど、ミズミと話してるとすごく楽しくて、、ちゃんと私を見て話も聞いてくれるし、無邪気でかわいいんですよ、ミズミ」 「そう……。僕、ユウちゃんの家庭教師やって随分になるけど、そんな風に友達の話を聞くの………初めてじゃないかな。それに、良かった………、三守さんのことがあってから、ユウちゃん落ち込んでいたみたいで心配だったんだ」 「ぁっ………」 小鳥先生が俯き気味に、今はもういないトモダチの名前を口にするから、私は一瞬、呼吸が止まって、そのトモダチの事を思い出してしまった。 三守さんは、中学校に入学して初めて出来た友達で、兄の彼女だった、というより私と小鳥先生でくっつけた。あんな変態な兄でも恋人が出来れば、少し自分に自信が持てるような気がしていた。でも三守さんは、二年生への進級間近の二月頃に、転落事故で亡くなった。そのショックで、私も兄も、しばらく口も聞かないぐらい落ち込んでいた。 「ごめん、軽卒だった。僕が口にしていい名前じゃなかったね」 「いえ………、大丈夫ですよ」 「そうか。じゃあ、今日はお詫びとして、微分公式か幾何学、どっちをやるか選ばせてあげよう」 「えぇ! どっちも嫌ですっ」 夏が近づく程、感じるもの全てが明るく輝いていくように思えた。 ミズキとは、ずっとトモダチだと思った。 これからも楽しい事たくん一緒に感じていけると思っていた。 それが当たり前のことだと思ってた。 私はミズミが好きだから。 夏の太陽みたいに、純白の眩しさをもつミズキの笑顔が好きだから、 きっと、変わらないと思っていた。 だけど、やっぱりそれは私の独りよがり願望。 七月の初め、暖かい陽射しが絨毯に零れる放課後の図書室で、いつものように待ち合わせ。私が遅れて入ると、ミズミは強張った表情で窓際に佇んでいた。私がごめんね、と言ってもまるで聞こえていないみたいに、言い訳を言い終える前に、ミズミは一通の封筒を私に渡した。いつも交換し合っている手紙とは違う。封筒の中に、秘密が入っているような、心臓の鼓動の調子が一瞬狂ってしまう違和感を、私を受け取って感じた。 「ユウ。読んで」 一言。すれ違い様に囁いて、ミズミはすぐに図書室から出て行った。 なんだか怖かった。 いつもとは違う雰囲気。 一枚のシールで閉じられた封筒を、私はそっと、指で切った。封筒の中には手紙が四つ折りになって入っている。それを取り出そうとして、自分の手が少し震えているのに気づいた。 なんだか怖かった。 私は、恐る恐る、そっと手紙を広げて、全体をまず見た。 そして、全身が一瞬、麻痺した。 数行の言葉の羅列の中、その一文だけ、私の胸に飛びかかってくる様に、目に入った。 『ユウが、好き。』 3 好きの一言。 私がミズミに言う、好きと、 ミズミが私に言う、好きは、 同じ音なのに、同じ文字なのに、同じ言葉なのに、その言葉が包む想いが空と海ぐらい違っていると、漠然と投げつけられた。 『この手紙を書こうか、すごく悩みました。 初めてユウに友達になってと手紙を渡しのは、 本当は、友達になりたいからからじゃないくて、 私は、それ以上の関係になりたかったから。 ユウが、好き。 嘘でも冗談でもなくて、本気でユウの事が好きです。 愛しています。』 何度も読み返して、何度も閉じて、何度も広げて読み直してみても、ミズミが云う好きは、私が云う好きと違うことがしか分らなかった。 私がどうすればいいのか、その答えはどこにても書いていなかった。 どうしよう……、なんて言えば良いの、………ミズミに会ったら私………。 答えが見つからない問題をずっと考えていた。 手紙を渡してから、ミズミは私に会いにこなかった。 それはとても辛い事なのに、私は安堵した。だって、今、まだ答えが見つからないのにミズミに会ったら、私はきっと、逃げてしまうから。ミズミを傷つけてしまいそうだから、それが嫌だったから、ミズミに会えなかった一週間、ホッとしたのと同時に、答えが見つからない事にすこし苛立ちを覚えた。他の事が、一気に色褪せたみたいに、曖昧な一週間だった。 「ストップストップ」 小鳥先生の声に、はっとしてペンを止めた。 「十分休憩しよう。そんな上の空じゃ何やっても身につかないから」 「あ、……ごめんなさい」 「それで……」小鳥先生は椅子を、私の横に移動させて「何か悩みがあるの? 話ぐらいなら聞くよ」そう言いながら、私の方を向いて椅子に座った。 「………聞いてくれるんですか、小鳥先生が?」 「なんか不思議そうな顔をしてるね。僕じゃ不満?」 「い、いえ、めっそうもございませんっ」 「だったら話せば?」 小鳥先生が何時もと同じ優しい声で、私の悩みがなんのことはないと云った口調で促す。足を組んだとき、スカートみたいな上着が翻った。今日は少し、小鳥先生の趣味側の服装をしている。 私は、どう話そうか少し考えてから、口にした。 「実は……、ずっと友達だと思ってた人から、告白……、されたんです。でも、私、なんて答えたら良いか分からなくて、ずっと、考えてるけど分からなくて……それで………」 「恋愛の悩みか。それなら簡単じゃないの? ユウちゃんが告白されてどう思ったか素直に伝えれば良い。それをどう受け止めるか、相手次第だよ」 「そう…なんですけど………。相手が女の子なんです」 「へぇ…………えぇっ、あ、そうっか……女子校だもんね。これが有名な……」 「有名な、何ですか?」 「いや、忘れて」そう言って小鳥先生はコーヒーを一口飲んで、慌てた素振りを綺麗に流し込んだ。「ユウちゃんは、相手が女だから悩んでいるの?」 「………分りません」はい、と頷きそうになった。 本当にミズミが、私と同じ女だからこんなに悩んでいるのかも、分らなくなっていたから。もし、ミズミが男だったら、私はきっと嬉しくて、あの場で抱きついていたかもしれない。……いえ、多分、変わらない。 友達だと思っていたのに。私はミズミとはそういう関係を続けたかった。それ以外の関係なんて、私達の間には思いつかなかった。だから、恋人という、未知の関係を突き付けられて、私はひどく焦った。焦って、焦って、悩んで、逃げたまま。 「慌てず、落ち着いて。怖れず」 小鳥先生が詩を詠うように言った。 「そして、素直に。……僕が尊敬している人から教えてもらった事なんだ。何かあったら、まずその言葉を思い出す。そうすれば、大概の悩みなんて、悩む前に解決する。……ユウちゃん。キミは賢い子だから、きっと最善だと思う答え、素直な気持ちを、もう見つけているはずだ。後は、その気持ちを信じて、言葉にすればいい。それ以外にはもう、問題解決のプロセスは残っていない。きっと、その告白をした子もすごく悩んだと思う。すごくがんばって、勇気をだして君に、素直な気持ちを伝えたんだろう」 息がつまった。 私に手紙を渡すときのミズミの表情が過った。 凛とした表情が、もしもあの時、ミズミの頬に触れ……名前を呼んだだけでも、泣き崩れてしまいそうなほど、瞳に苦辛を隠していた。 「いいかい、ユウちゃん。慌てず、落ち着いて。怖れず、素直に」 小鳥先生は、呪文のように四つの言葉を囁いてくれた。 次の日。私は、放課後の図書館にミズミを呼んだ。一週間ぶりに会ったミズミは、辛そうな表情を必死に隠そうとしているように、私には見えた。 手紙を書いて、それをミズミに渡した。けど、ミズミの悲痛な表情を見たら、少しでも早く私の気持ちを伝えた方が良いと思って、私は言った。 「ミズミ。あのね………、ずっと考えたんだけど、私もミズミのことは好き。でも、今は友達としか思えないの…………」 ミズミは私から顔を背けて、今にも去ってしまいそうだから、私はミズミの腕を掴んだ。 「でも、ミズミを失うのはイヤ!」 それが言葉にできる素直な気持ち。 「今はまだ友達として好きだけど、もしかしたら、私も……ミズミと同じように好きになれそうだから……だから、………お願い、ずっと一緒にいて」 精一杯、言葉を探して伝えた。 ミズミの顔に、輝きが戻ってくる。 それがミズミに私の気持ちが伝わったことより、何より、嬉しかった。 これを恋と呼ぶのか、分からないけど、やっぱり私は、ミズミと一緒に居たい。 失いたくない。 大事だから、 大切だから、 好きだから、 私は、ミズミと離れたくない。 それだけを、伝えられて、よかった。 もしかして、私はもう、ミズミに恋をしているのかもしれない。 そう思ったら、ミズミが私に抱きついてきて、私もミズミを抱きしめた。 まるで夏の夜明けの陽射しのように、ミズミは暖かかった。 4 ミズミと付合う事になったけど、だからといって私達の関係は劇的に変化はしなかった。放課後に図書室で待ち合わせて話をしたり、授業中に書いた手紙を交換したり、学校帰りに一緒に遊んだり、今までどおり友達の関係のままだった。だから、付合ってるとか、ミズミと私の「好き」の違いなんて、私は忘れてしまいそうだった。ミズミはやっぱり、友達なんだって……女の子同士だから、恋人になんてなれないんだって、思っていた。 でも、夏休みに入ってから、ミズミの変化に私は気づいた。 前からミズミは、凛として強い雰囲気を漂わせていたけど、今はそれが研磨されたように硬い。頼もしいというか、カッコいいというか、まるで小鳥先生に近い雰囲気を私は感じた。どこか男女の境界線を一歩踏み出したような、そんな中性的な雰囲気。それに、私は少し戸惑っていた。 そしてミズミが、何かに焦っているように感じた。一緒に居るときのミズミは笑顔なのに、ふと見せる横顔は、とても悲しげで怖かった。 夏休みのある日。私の部屋で、ミズミと一緒に課題を消化していた。私は、大学進学を決めていたから勉強に集中したかったけど、ミズミは子供みたいに駄々をこねていた。 「ねぇ、ユウ。遊びにいこうよ。そんなのあとにしてさぁ」 「だーめ。ちゃんと勉強しないと、受験生なんだから」 「だって私、受験しないし」 テーブルに頬を擦り付けながらミズミは、つぶらな瞳で私を見る。なんだか、散歩に行きたがっている子犬みたい。私だって、本当はミズミと外で遊びたいけど、後で苦しくなるから我慢してる。こんなに勉強しても、希望校に受かる保証もないし、模試の予想でも思ったより上がらないから、ちょっと不安。なんだか不毛にも思えて、いっそミズミと遊びまくるぞっ、と思ってしまうけど、そうすると、小鳥先生に失望されそうで怖い。小鳥先生の頭脳が欲しいな。 「あぁ、ユウは私より勉強の方が大事なのね……」 ふて腐れたような口調で、ミズミが言った。 「そんなことないよ。それに……、もう少ししたら家庭教師の先生が来るから……」 「カテキョ? ……………ふーん、その先生って、オトコ?」 陽射しを連想させるようなミズミの瞳が、今、暗闇の中のかがり火のように怪しく煌めいて見えた。私の秘め事を炙り出そうとするような、そんな、鋭い視線。 その視線を浴びて、 「そ……そンな、こと……チ……が、うよ」 声帯を握りしめられたように、言葉がうまく発音できなかった。 「好きなの? その先生が」 「ちがうよ!」ミズミの口が閉ざされる前に叫んだ。 反動で、身体が少し退く。 ミズミの瞳が、私を苛めるようにじっと、見つめて放さない。 「なんで動揺してるの?」 蛇のようにしなやかにくねる様に、テーブルを迂回して、ミズミが私に近づく。下から舐めるように、上目遣いで私を見るミズミの瞳。近づいてくる顔。 「ふふ………、かわいい」 囁きと一緒に顔に触れたミズミの冷たい手に、私は痺れた。 「違う、よ。本当、にそんなんじゃ……ないよ」 私は、嘘をついた。 初めて、ミズミに嘘をついた。 嘘をついてしまった罪悪感より、騙しているような気がして、ミズミから私は視線を逸らした。さとられたくなかった。 「本当に違うよ。だって、小鳥先生、ずっと年上だし、大人だし、頭がいいし、私なんか全然、相手にしてもらえないよ……」 なんだか、ミズミに言った言葉なのに、まるで小鳥先生が私に言っているように聞こえた。 「そんなの、関係ないよ」 ミズミの細い指が、私の頬を撫でる。 「相手が年上とか年下とか、オトナとかコドモとか、男でも、女でも……恋に落ちるときは落ちるのよ。誰だって好きなら、どんな状況だって、相手が誰だって、恋に落ちるよ、ユウ」 聞こえていた筈の外の雑音や小さな命の鳴き声が聞こえない。私には、今、ミズミの声だけしか、聞こえない。 近づくミズミの瞳。 ミズミしか見えない。 私は、ただ、何もかも忘れてしまった様に、 ミズミの小さな息づかいを、頬で感じながら、 凝固していく静寂を、全身で聴きながら、 萎んでいく自分の呼吸に、縛られながら、 私は、ミズミの唇を受け入れるように、動けなかった。 けど、 ミズミの体温が伝わるほど近づくと、 「ミズミ!」 私は、ミズミを拒絶してしまった。 止まっていたもの、固まりかけていた静寂も、ひび割れて壊れてしまった様に、動き出す。静かに。眠気を誘うほどゆっくりと、壊れかけて元通りに動き出した。 「ご、……ごめん、ミズミ」 一瞬、ミズミの表情が灯火が消えたように消沈したように見えた。立ち上がって、私の方を向いて、微笑んでくれたけど、その微笑みにも、いつもの眩しさはもう無かった。 「オベンキョ、がんばってね」 途切れかけの言葉を呟いて、ミズミは部屋を出て行った。 私は引き止めることも、追いかけることも出来ないまま、壊れた人形のように座り込んでいた。しばらく………、どれぐらいの時間かわからないぐらい、独りでミズミの残り香に縋るように、座り込んでしまっていた。 後になって、テーブルの上に合格祈願のお守りが置いてあるのに気付いた。きっと、ミズミからのプレゼントだと分かって、涙が出た。 5 あの日から、ミズミに会う度に、それまでにない緊張を感じる様になった。ミズミの些細な仕草にも、私はどきりと、一瞬息を止めてしまうことが多くなった。 それはミズミが怖いからではなくて、呼吸を止めた一瞬の間はミズミしかいない、そんな強い衝動。 ミズミと話しをしていても、ミズミのことが遠い存在に感じる。友達だった時のミズミとは違うミズミと話をしているような錯覚を感じる。 ミズミの輝きが、日に日に増して眩しすぎて、ずっとミズミを見ていると目が溶けてしまいそう。それでも、ミズミから離れられない。 もしかしたら、私は、本当にミズミに恋をしてしまってのかもしれない。 恋って、そんな自虐的なものなのかな。 こんな気持ちが強くなったら、どうすれば………。 ミズミは、私の事、どう思っているのかな、そんなこと訊かなくてもミズミの視線、仕草、表情を見ていれば、嫌でも分かる。嫌でも……。ミズミに会う度に、胸が痛くなる。 それがミズミに対する罪悪感だと気づいたのは、私の何気ない一言だった。 休みの日に、ミズミと一緒に街を歩いていた時、二人組の男の人に声を描けられて、一緒に遊ばないか、と誘われた。私は戸惑って、断りたかったけどなんて言えばいいか分からず、困っていたら、ミズミが「悪いけど、邪魔しないでね」そう悠然と言った。私達は、そのまま足早にその場を去った。その時のミズミは、いつものように凛としていた。だから、私はつい、言ってしまった。 「ねぇ、私達って友達にみられたのかな?」 ミズミは、力が抜けてしまったような微笑みを返した。何も言わなかった。 私は後悔した。 同時に、ミズミの気持ちが痛いほど、伝わった。 それでも私は、ミズミの気持ちに気づいていないフリをした。 それが、ぎりぎりの一線だと思った。 それを越えたらきっと、がんばって積み上げて来た何かが崩れてしまいそうな、予感がした。 私が好きなのに、小鳥先生のはずなのに、もしかしてホントにミズミの事が……、そう考えてしまうことが多くなった。だから、私はミズミを避けるようになった。会いたくない、ではなくて、考えたくなかった。自分にとって、今なにを優先すべきなのか分からないほど子供じゃないから、私はそのために、ミズミと会うことを避けた。そうしないと、きっとどちらも惨めな結果に終わってしまいそうだから。 私は受験勉強に専念することにした。小鳥先生は、私の事情に気づいているのか、なんだか最近やさしい。でも、課題は反比例して厳しい。でも、そのおかげで、ミズミの事を、その時だけは忘れられた。 十月から十二月まで、いくつもの模試を受けた。そして、最後の模試を受けた後、私は気分転換に近くで買いものでも使用と街を歩いた。 その時、見た。 雑踏の往来の中、見覚えのある横顔。凛とした顔立ち。見間違えるはずがない、どんなに群れに紛れていても分かる、眩しい微笑みを浮かべるミズミが、オトコのヒトと一緒に歩いていた。 楽しそうな表情で、淑やかな仕草、好意に満ちた視線、細い腕を隣のオトコのヒトの腕と組んで、歩いていた。 私は人ごみの流れに異物のように取り残され、立ち止まり、ミズミを見つめていた。向こうは気付いてない。だけど、私は呼吸をするのも忘れる程、見ていた。目が溶けてなくなってしまいそうなほど、焼き付けられるような痛みを感じながら、二人をただ、見ているしか出来なかった。 ミズミと小鳥先生を。 6 慌てず、落ち着いて。恐れず、素直に。 私は小鳥先生に教わった言葉にすがるように、次の日の放課後、ミズミを図書室に呼んで、昨日の事を尋ねた。 すると、ミズミは驚いた風でも困惑した風でもなく、いつものように凛とした表情を崩さず、微笑んだ。 「ユウはさ、私と小鳥さん、どっちが好き?」 「え? …………なんで、そんなこと訊くの? 私は今、なんでミズミと小鳥先生が……」 「ユウはなぜ、そんなこと訊くの?」 「だってっ…………」言葉が続かなかった。 だって、小鳥先生が好きだから。 だって、ミズミが好きだから。 だって、ミズミは私が好きって言ったじゃない。 どれを言っていいのか、分からなかった。 分からない。 自分の気持ちが、分からない。 「ユウ」 ミズミが私を呼んだ。 遠いと感じるミズミが、手を伸ばせば届く場所から私を呼んだ。まっすぐ、邪なものや汚れを感じない、夏の陽射しを連想する虹彩をもつミズミの瞳が、私を見 つめる。その瞳に見つめられると、まるで私は罪深い罪人のよう。自分の小賢しく意地汚いものを必死に隠したくなる。それほど、ミズミは綺麗。 「わたしのこと、好き?」 鈴の音のように鋭いミズミの声が、私の呼吸を一瞬、許さなかった。 「す………、き。………ミズ、ミの、こと……好き」 錆ついた鈴の音のような、不細工の声しか出なかった。 そして、図書室の窓から差し込む夕日によって、私達の周囲は酸化しまったように、苦く熱く、重苦しく感じる。 それなのに、ミズミだけは、綺麗なまま、 「だったら、……キスして」 私を撫でるような声で言った。 とても艶やかな声。 拒絶の類いを奪うような、魔的な声。 どうして? という疑問を反芻する間に、身体は引き寄せられるようにミズミのもとへ。 慌てず、落ち着いて。 少し見上げるようにミズミの顔を見た。 綺麗な輪郭。光沢のある、きめ細やかな肌。潤いが満たされた唇。魅惑の瞳は、瞼に覆われて、感じるのは、ラベンダーの微かな匂いと小さな息づかい。そして、ミズミの熱。 誘われるように、私の唇は、ミズミに触れた。 「ぇ………」 唇が触れた刹那、ミズミの瞳は大きく開かれ、悲しげな潤いに溺れた。 そんなミズミに驚いて、悲しくなって私はすぐにミズミから一歩離れた。 ミズミを傷つけてしまった。 幼い子供のように、ミズミが、呆然と私を見た。 その視線が、痛かった。ずきりと罪悪感が私の心臓を締め付ける。 「ごめんなさいっ」 その言葉だけでもと言い残して、私は図書室を出た。 それでもずっと脳裏から、ミズミの顔が離れない。 傷つけた。悲しませた。裏切った。 私が犯してしまった罪が、私を罵る。 キタナイ。ズルイ。ヒキョウ。サイテイ。 どうして、私はあんなことをしてしまったのか分からない。 どうして、ミズミを試すようなことをしたのだろう。 唇でも頬でもない、中間辺りに、私は唇で触れた。 頭の中が真っ白になって、引き寄せられるように、触れた唇なのに。 私は、それでもミズミを拒絶してしまった。 もうダメかもしれない、と思った。 もうミズミは私と一緒にいてはくれない、と怖くなった。 私はなんて、こんなにキタナイの………。 7 ミズミは、私を避けるようになった。私も、それを受け入れた。 同じ学校に通っていても、違う科だから顔を会わす事はないけど、たまにミズミが私の知らない人と楽しそうに話をしているのを見ると、胸が痛くなる。 二学期が終わって、三学期が始まると私はもう、受験の事で精一杯だった。でも、机の引き出しに仕舞ってあるミズミと交わした手紙を見ると、誰かが止めてくれないとずっと、ミズミのことを考えてしまう。 会いたい、声を聴きたい、手を握りたい、私を見て欲しい……。 どんなに考えても、望んでも、願っても、祈っても、私はミズミに会う努力すらしなかった。 今までみたいに、自分が望む様な展開になるように、念入りに計画して、用意して、さりげなく仕向けることが出来なかった。 ミズミを見ていて、自分が計算高い女だって、恥ずかしくなった。だから、私はミズミみたいに、無垢で綺麗な笑顔をつくれない。 あの無邪気で、純粋に嬉しくて微笑むミズミに、私はいつか愛想つかされて、捨てられてしまうと怖かった。そうなることが、堪らなく、辛かった。だから、私はミズミの気持ちに、合わせるフリをしていたんだ。自分の我が侭のために、ミズミの気持ちを利用していただけ。弄んでいたのは、私。だから、捨てられて当然だと、どんなに自分に言い聞かせても、私のミズミに対する気持ちは冷める事はなかった。 一月が過ぎて、二月が過ぎて、受験も終えて志望校を合格して、卒業式を迎えた。それまで、ミズミと会うこともなかった。そして、卒業式を終えて学校を出ると、きっともう、ミズミと会うことはないと思った。それが悲しくて、私は、卒業証書を手に持って泣いている同級生とは違う想いで泣いていた。 校庭にはまだ咲いたばかりの桜の花びらが風に強引に踊らされ、暖かい陽射しがそれを優しく照らしていた。少しそわそわした空気。少し乾燥した空気。周囲の声は、まるで音楽のように繰り返し同じ言葉ばかり唱えている。私だけ、取り残された様に、違う悲しみで、泣いていた。 「ゆう」 その声を、聴くまで。 「ゆう」 もう一度、名前を呼ばれた。 聞き違えるはずがない自分の名前を、ずっと呼んで欲しかった人の声で届いた。 穏やかなで、優しい声の聞こえる方には、ミズミが、この季節に寄り添うような陽射しを連想してしまう笑顔で立っていた。 「ミ、……ミズミ!」 私は、息苦しい呼吸のまま、ミズミのもとに駆け寄って、抱きついた。 「ミズミ、ミズミ、ミズミ………」何度も名前を言った。 ミズミが優しく腕を回して、私の髪を撫でた。 「ゆう。…………大学、合格したんだってね。おめでと」 「ミズミ………」私は急いでポケットの中に仕舞ってあったお守りを取り出した。「ミズミがくれたお守りのおかげだよ………、ミズミがいたから……私……」 辛かった時もあったけど、それでも、一緒にいた時がそれ以上に嬉しかったから。そう伝えたかった。 ミズミは、私の頬を撫でながら言った。 「ゆうは……、変わらないね」 初めて会った時みたいに微笑んだ。 なのに、私はもうミズミは私を必要としていない事に、気がついた。 きっと……、そう、私の身体からミズミの手が離れたら、お別れなんだって、思った。だからその前に、後悔しないように、私は言いたかった。 「ミズミ、ごめんね」 それと、 「わたし、ミズミのことが好きだから……、愛してる」 最後だけ、わたしは、素直になれた気がした。 目一杯、今の気持ちを表したくて、私は笑って見せた。するとミズミが、笑顔で私から手を放した。 さようなら、を言わなかった。 再会の予感があったからじゃなくて、きっと、忘れないため。 遠ざかるミズミの姿を、私はすこしだけ見届けて、振り向いた。 綺麗な陽射し、等しく私とミズミを照らしてくれる。 だから、忘れない。 きっとこれから、ミズミが恋しても、私が恋しても、ずっと忘れられない。 初めての恋が、ただただ愛しくて綺麗すぎる恋だったから、 私は、これから好きな人に、告白できる。 慌てず、落ち着いて。恐れず、素直に、愛せます。 (了) |
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