第2章 愛された束縛

 僕達は、違う世界に住んでいる。
 手を繋ぐ事も、抱きしめ合う事も出来ない。
 違う世界に生きている。
 僕が支配できる世界に、閉じ込められた愛しい人。
 僕が生きている世界より、美しい世界の人。
 一瞬だけ、出逢う事ができる。
 その一瞬に、生涯のすべての愛情を込めよう。
 そして、永遠に閉じ込めよう。



 1

 ブサイク!
 キタナイ!
 サイテイ!
 サイアク!
 萌えなぇ!
「なめんじゃなぇぞコラ!」
 芸術家の叫びは、夕日に届いたとさ。
 お・し・ま・い。



 2

「どうも、ワタクシ、前部長の引退により写真部部長に就任致しました、籠井忍(しのぶ)でございます。では、だらだらと自己紹介しても仕方ないので、さっそく我が写真部の活動内容について説明致します。…あ、いいな我がって言うのが。ごほんっ。まずは、現在の在籍部員数は、私を含め二名です。……え、廃部寸前じゃないかって? 何をおっしゃるお釈迦様。その通りです。だからこうして部長のワタクシががんばっているのです。本来、部長なんて云う部の宣伝塔や雑用係なんて、城阪さんがやるべきなのですが、なにせ城阪さんったら生徒会長になっちゃったのですよ。消去法でワタクシなんですよ。ずるいですよね。
それはさておき。部活内容ですが単純明快、そこに被写体があるなら撮れ! です。ね、簡単でしょ。備品としてフォト雑誌に、デジタルカメラが六台と一眼レフが四台ありますので、初心者の方でもご安心ください。基本的に、金曜日に部室でミーティング。それ以外は各自で撮影という名の下校なり青春を謳歌しちゃってください。秋の文化祭で、写真の展示をする以外、特にイベントがなく、つまらなけば、各自で賞にでも何にでも送りやがれ、という事で。大変簡単ではございますが、以上が写真部の紹介です。…………あ、言い忘れていましたが、写真部は他の部よりも多くの部費を獲得しております。部費予算委員会では、偉大なる先輩のおかげで、連戦連勝です。……え、なぜかって? そりゃ、決まってるでしょ…………うちは、写真部ですよ。ね、三守(みかみ)校長先生。撮影するものは別に風景や草花に限った事じゃないのです。他人の弱みだって…………なんちゃって。では、これで本当に終わります。ご清聴、ありがとうございました」
 まばらな握手と、先生方からの無言の熱視線を感じながら、僕は壇上からおりました。いやぁ、なんだか人気の的? 照れるなこういうの慣れてないから。でも、面白いな。城阪さんが毎週、全校朝礼であいさつする気持ちがちょっと分ったよ。これ以上の情熱的な視線浴びたら、どんなに冷たい女子でも、感じちゃうよね。
「そうでしょ、城阪さん」
「籠井君。来生からやり直しないさい」
「ぐわぁ、死ねと申すかっ」
 もう、バナナで釘が打てるんですよ、みたいな視線を僕に向けちゃう城阪さんに、僕はお手上げですよ。まったく、小学校で習わなかったの? 視線で石化しちゃう人もいるので気をつけましょう、って。そりゃメデューサや!
「籠井君。今日の新入生対象のクラブ説明会、とりあえずお疲れさまです。でも、あんな説明で入部者が一人でも現れると思いますか?」
 四月の中旬。もう桜の花も散ってしまった午後、一年生に対するクラブ説明がつい一時間程前に行われました。写真部は、三年生の僕と城阪さんしか部員がいない、つまり今年、入部者がいなければ来年には廃部。いや、秋の文化祭で三年生は引退するからあと半年の命。風前の灯し、嵐の前の静けさ、スポイド下のロウソク、みたいな状況。そんな状況な放課後の写真部の部室で僕達は二人っきり、きゃは。
 城阪さんは、前部長の意思が乗り移ったごとく、一年ぐらい前から静かな高圧さというか、凄みを増して、ちょっと怖いぐらい優等生。いつからそんなに情熱的になったのさ。一年生の時は大人しかったのに、誰の影響なのよって、一人しかいないか。妄想はほどほどにしなさいって。知ってるんだよ、君が妄想大好き乙女だと云う事は。もう、部長は僕なのに、なんでそんなに偉そうなのさ。………あ、生徒会長だからか、うん、納得。学園最強だもんね。敵わないよ。恋人は空手部部長だし。
「別にいいじゃないッスか。形有るものいずれ没するってね。自然淘汰みたいなもんッスよ。それに、生き残りをかけてがんばる組織って、その古い考え故に生き残れないものですって。それに………後半年で引退するから来年のことなんて知るかっってだー、ニャホホ」
 そうそう、廃部になりゃいいじゃないの。廃部になってしまう、とか考えるなんて時間のムダムダ。マイナス思考、つまんないじゃん。そんな事、廃部になってから考えりゃ良いじゃん。必要なら、また創ればいいの。もう、考えが埃臭いんだからさ。
「そもそも写真なんて、個人でだってやれるんだから、別に集団になる必要ないって。ま、それなりに楽しいけどさ。伝統だとか卒業生の意思とか歴史とか、そんな過去の事ばかりの理由で成り立つ組織って、つまりは今生きてる人にとっては有ってもなくても、どうでもいい組織ってことッスよ。そんな組織の存続を考えてばかりいると、本来、僕達は芸術に携わる者という事を忘れてしまいますよ。それって本末転倒ってでしょ?」
「籠井君の意見は尊重します。それに後半は同意します。ええ、私だってこんな事に時間を消費したくありません。でも、そうなると今年度の部費が減少して、現像などが個人負担になります。それは嫌でしょ」
「そりゃ嫌だけど。現像は、ほら、サキタ先輩のバイト先に頼んだら安いし、プリントアウトはパソコン部のプリンタを借りれば良いじゃん。二万円ぐらい確保できれば、十分じゃないの?」
「………これは部外秘ですが………」
城阪さんが急に身を乗り出して、小声ではなしだした。もしここが夜の和室で、蝋燭の灯火しかなかったら、悪代官と越後屋の悪巧みに聴こえてしまう。おぬしも悪よの悪代官屋、いやいや越後屋には及ばぬよ、ぬっふふふふふ………、あれ、立ち位置が逆かな? ま、悪代官はあんただ城阪さん。どんな悪巧みだい?
「今年度の部費、写真部は来年廃部になるのでゼロにしようという案が大多数の支持を得ています」
「え! 部費無しってなんで? 同好会じゃなくてちゃんとした部だよ」
「それについては過去の恨み辛みが積もり積もって、今、降りかかった、としか……。六年ぐらい前の、緑沢先輩の前の部長が、ネジが一本しか残ってないぐらいの変人というか変態というか似非王子様が………、この学園に多くの選択の自由と、その三乗根ぐらい豪快に迷惑をかけたとかで、それが語り継がれた結果が、その案の支持ですね。」
「うわぁ、なにそれ。とばっちりじゃん。関係ないじゃん僕たち。それにそんなすごい先輩なら、その功績をもっと讃えて、仕返しはあと二年ぐらいあとにしてほしいな。何したのさ、その人」
「そうですね、確か、制服の種類の増加と選択の自由と、購買部の競売の自由と、入部の任意化と学科の増設と情報処理室設立と、国歌斉唱の自由とか……」
「すごい人じゃん」
「それから、二十近くあったクラブの統廃合と授業時間の増加と授業に哲学を入れようとしたかと、それから、退学者と辞職者が急激に増えたとか、近隣の野呂犬や野良猫や野鳥が住み着いたとか、教室一つ爆破したとか、あと、空手部と柔道部の部員を多数病院送りにしたとか、色々ありますね」
「す、すごい人じゃん…………」
もうなんていうか、早く卒業してくれてありがとう、みたいな。居るんだね、十年に一人の逸材って。どんな人だよ。僕が知ってる前の女子空手部部長も、色々伝説は聞いているけど、こんな超人には、どんな達人だって相手にしたくないよね。
「でもさ、ずるいよそんなの」
「ええ、そうですね。分ってます。だから私も反対したのですが、さっきの説明会で籠井くんがあんな事を言わなければ、まるく収まったものを………」
「え、あの最後のジョークのこと? やだな、あんなの冗談にきまってるのに………みんな信じちゃったの? あぁ、綺麗な心だね」
「それだけ恐れられていたんでしょうね、その先輩が。確かに怖いですけど……。とにかく、明日の委員会でなんとか部費は確保できるようにしますから、部長の籠井くんも軽率な言動は控えて、新入部員を見つけてください。いいですね」
「はぁぁい。わかりました。キヲツケマス」
 席から立ち上がった城阪さんが、冷凍マンモスにするわよ、みたいな視線を向けて、退室していった。かと思ったが、閉まったドアを少し開けてカオだけ見せた。
「ところで籠井くん。木間先輩から、この間の写真が現像できたから取りにくる様にって、メールが入っていましたよ」
「え、あ、……あぁ、はいはい。わっかりましたー」
「ついでに私が頼んでた写真も現像し終わってるから、よろしくね」
 そう言い残して、お忙しい生徒会長様は退室されました。
 まったく、みんな自分勝手だな。



 3

 部活動の時間は午後六時まで。だけど僕は五時前に切り上げて、サキタ先輩がバイトしているカメラ屋へ。
 サキタ先輩は、写真部の二年先輩で、堅物の前部長からよく僕を守ってくれた恩人でもある。カメラの腕は前部長の方が上だと思うけど、整備については職人的で、今は大学の工学部に在籍しているとか。ちなみに、彼女がプロのモデルってのが憧れる。尊敬です。マジで。
「サキタ先輩。写真受け取りにきましたよー」
 愛情と尊敬を込めて、カウンターの奥で雑務をされている先輩に声をかけた。すると、威嚇するように立った髪を掻きながら先輩は手をあげて、更に奥の方へ行ってしまった。数秒後、二つの紙袋を持ってカンターに帰還。
「いいねぇ、学生は。部費で写真盗り放題できて。うらやましいぞコラ」
 無造作に写真が入った紙袋をカンターに置いて、頬杖をついて客を睨むサキタ先輩。いいのかな、こんな接客マナーの悪い店員。ま、色々と融通してもらってるし、僕はいいけどね。
「どうも、いつもありがとうございます。お金は城阪さんが払いますから」
「あ? 持ち逃げか?」
「違いますよ。ワタクシは、カメラと愛しか持ち歩かない主義なので、財布を持ってないんですよ」
「っか。キザだね。……ま、そりゃいいけどさ。忍。オマエの写真って、女しか写ってないけど、まさか盗撮じゃないだろうな、犯罪だぞ」
「うわぁ、見たんですか先輩っ。そっちこそマナー違反ですよ」
「いいだろ、現像するとき目隠しで作業できるほど熟練じゃねぇんだよ。忍、彼女いないのか?」
「いませんよ。ワタクシは、サキタ先輩みたいにモテませんから。それに、現実の女になんか興味ありません」
「でも、写真に写ってるのはフィギュアじゃなくて、生身の女体だろ」
「女体ってイヤらしい響きですね」
「前々からオマエの恋愛観が変だと思っていたが、ちょうどいい。そこんとこ暇つぶしに聞いてやる。オレ、あと二十分ぐらいで終わるから、ちょっと裏で待ってろ。五分でいく」
 言われた通りに、僕は店の裏で先輩が出てくるのを待った。三分ぐらい経って、威嚇的な白い服装のサキタ先輩が裏口から出て来て、そのまま近くのファミレスへ向かった。ホント、ずいぶんと融通のきく店だ。
 ちょうど込みだす時間だったのかファミレスは賑やかで、いや、ウルサいからと先輩は別の喫茶店を案内してくれた。なんだか日没が外より二時間ほど早そうな店で、隅の窓際に僕達は向かい合う様に座った。僕はコーラを、先輩はなんだか呪文みたいな名前のお酒を注文した。
「アニメオタクか?」呪文カクテルを飲みながらサキタ先輩が尋ねた。
「違いますよ。そりゃアニメは好きですよ、でも、アニメキャラが恋人なんて妄想しませんよ、城阪さんじゃなし」
 サキタ先輩の顔に飾られたピアスを数えながら僕は続けた。
「二次元キャラに欲情しません、ワタクシは現実の女性に欲情する正常な男の子です。ただ、違うのは………」
コーラを一口飲んで、口の中で十分刺激を堪能してから続けた。
「写真の中の女性だけ。三次元を二次元に投影した形に恋をしている、ちょっとシャイな純情ボーイなんですよ」
コップをテーブルに置きながら目を瞑る。決まった。我ながらナイスなキャッチコピーだ。
「………忍。タバコ吸っていいか?」
「はい、どうぞ」
 灰皿を差し出すと、サキタ先輩は黒い箱からタバコを取り出して深く紫煙を吸った。ほんのり甘い匂いが漂う。煙りは滑らかな曲線で、誘惑するように漂う。
「なんか、それ………報われないな」
 ぽつりと、サキタ先輩は窓に写る僕を見ながら呟いた。紫煙が煙たいのかな、いつもより目を細めている。
「だってよ、俺たちは三次元の住人、二次元の恋人とは結ばれない。そもそも写真ってのは、撮る者と撮られる物って関係で、その距離はとても遠い。……いや、それでなくてもオマエの考えだと、別に写真に写ってるアイドルなんかに会ってみたいなんておもわないんだろ」
「うぅん、そうですね。興味ないですね。……あ、でも夏弥ちゃんに会ったときは感激しましたよ」
「あ、……あぁ。あったね、そんなことも」
 溜息を吐く様に、紫煙を窓ガラスに向けてサキタ先輩は吐いた。なんだかピンぼけしているような眼差しをしている。きっと、昔の彼女の事を思い出しているのかもしれない。高校生だった時、サキタ先輩はモデルの桃瀬夏弥さんと付合っていた。だから、サキタ先輩を通じて彼女に会えた。
 あぁ、あの頃は幸せだったな。今はもっと幸せだけどね。どうしよ、これからもっと幸せになったら。
「あ、そうだサキタ先輩。先輩に見せたい写真があるんですよ」
 僕は鞄の中を覗き込んで、一枚の写真を取り出して、机の上に置いた。サキタ先輩は、タバコを灰皿に押しつぶしながら、その写真を掴んで顔に近づけた。
「………忍、これ、……どうした」
「綺麗でしょ」
「………どうしたんだよ、これ」
 サキタ先輩の表情がひび割れるように強張る。虹彩が広範囲を視ようと広がる。顔色が色褪せるように血の気が退いていく、きっとタバコなんて吸ってるからだね。
「もちろん、ワタクシが撮ったんですよ。どうですか? それが、僕の恋人なんですよ」
 僕の恋人なんて口にすると、なんだか恥ずかしいな。きっと赤面してるだろうな。
でも、サキタ先輩は写真に釘付けみたいで、僕の声がちゃんと届いてるか不安だ。
「先輩。……聞いてます?」
 サキタ先輩から反応が見られない。
 どうやら見蕩れちゃったのかな? あれ、これって自惚れ? ナルシストなのかな僕。でもその方が人を深く愛せるような気がするんだよね。だって、自分さえ愛せない奴が、他人をどう愛するのさって感じでしょ。
 もう二分ぐらいかな。サキタ先輩の視線がずっと、写真と僕を行ったり来たりして、そのくせ僕の声は聞こえてないみたい。どうしよう、暇になっちゃうよ。
「先輩、そんなに衝撃的でしたか。そうでしょうね、うんうん。ワタクシもその写真、すごく満足してるんです。どうやって撮ったか気になりません? それとも写ってる人が誰だか知りたいですか? あれ、もしかして分っちゃいました?」
 少し身を乗り出して尋ねると、やっと先輩に僕の声が届いたらしく、写真を伏せるように机において、僕の方に視線を固定してくれた。
「籠井。これ、どうした」
 喉に力を込めたような低いローンで、先輩が僕を睨む。
 怖いな……。
「先輩、さっきからそればっかですよ。でも、そんなに知りたいなら、先輩にだけ特別に教えちゃいますよ。ちょっと長くなるかもしれませんが、良いですか?」
「………籠井。タバコ吸うぞ」
「はい、どうぞ」



 4

 僕には二歳年下の妹がいる。妹が女子校に入学した年、去年の夏に僕はその子に出会った。
 妹のクラスメイトで仲も良かったから、よく家に遊びに来ていた。だから、自然と僕とも顔を合わす機会があって、その時に妹から紹介された。彼女は、ミユ、という。名前を聴いて驚いたけど、それ以上のものに僕は驚いた。今でもその時の事は鮮明に覚えている。頭の中でシャッタを切る音がしたんだから。
 薄い栗色に染められた髪。ポニーテール。黒いワンピースに大人びた印象を持った。妹が子供の頃に遊んでいた着せ替え人形よりもスリムなスタイル。肌が白く、自分とは人種が違うのかと思った。
 玄関から差し込む西日を飾るように佇むミユの姿は、僕の心のフィルムに保存されている。あの時ほど、カメラを携帯していなかった事を悔やんだ事もなければ、なぜ写真を撮り続けていたのか、その理由にふさわしい答えを見つけたような気分になったのは、あの一瞬が初めてだろう。
 僕が、彼女に対して好意を持っていたのは確かだけど、最高の被写体だ、という以外、さしたる感情は持っていなかったと思う。
 彼女を撮りたい、それ以外の欲求は無かった。声を聞きたいとか、手を握りたいとか、キスしたい、セックスがしたいなんて思いもしなかった。
 だけど、おせっかいな妹の策略で、僕とミユは付合うことになった。
 付き合いなんて鬱陶しい事この上ないと思っていたけど、彼女の写真を撮る機会は、付合っている関係の方が多いと気付いた。ファインダ越しに見る時だけ、彼女は僕の恋人だと思った。それ以上でもそれ以外でもない。
 デートも何回かした。キスもセックスもした。そういう関係を維持するために必要と思った。彼女が望む恋人を演じていた。それぐらいは対価だと思うし、多少の我が侭にも付合うのもサービスだと思う。
 でも僕は、生きている彼女になんの魅力も感じない。写真の彼女、いや、その写真がとても愛しかった。彼女と僕では、愛しむ対象、求める形、関係のベクトルがずれていた。
 もちろん分っていた事だけど、そんな関係は長くは続かない。いや、僕にすればシャッターを切る時間だけで成立する関係なのだから、十分長かったけど、半年ぐらいで、破綻し始めた。
 冬。
 もうこんな関係は終わると、きっと互いに予感していた。そんな不思議な雰囲気を引き連れて、僕達はデートで少し遠出をした。
 雪が降っていた。空は灰色。岬の灯台。灰色の光景。何かが壊れるような予感を嫌が応にも覚える気温。寒かった。
 寂しい灯台。その屋上に上がって、僕はカメラを海へ向けて写真を撮った。風景写真なんて滅多に撮らないけど、きっと忘れてしまいそうな風景だったからだと思う。
 僕とミユは何かを話した。覚えていない。普段から会話は噛み合ないから、その時の会話なんてやっぱり簡単に忘れてしまったんだ。きっと彼女の脈絡のない突拍子な幾つもの話に、適当に相づちを打ったんだろう。
 一枚、海と灰色の雲と透明な雪を背景に彼女を撮った。
 一瞬の愛情。ファインダをずらすと、もう赤の他人。
 そして、唐突に彼女は涙を流した。
 ヒステリックな叫び、自虐的な呟き、支離滅裂な文法、的外れな妄言。それら一言だって、僕は覚えてやいない。興味が無かったからだろう。でも、耳は確かに彼女から発せられた音は受信していた。
 喧しかった。
 ウルサかった。
 汚かった。
 乱れて崩れていく綺麗だったもの。
 彼女が涙を流す度に、声を出す度に、
 綺麗だった彼女は不可逆的に、汚れて、不細工な形になっていく。
 それが、酷く屈辱だった。
 今まで撮った美しい写真全てが、陵辱される気分だった。
 僕の愛しい者を、奪い、辱め、犯し、二度と戻ってこない程めちゃくちゃに壊される、それを見せつけられている様だった。
 彼女に駆け寄る。
 一瞬だろうか、僕が感じるもの全てが曖昧になった。
 感覚が元に戻ろうと加速しだした時、
 彼女は、落下した。
 灯台の屋上から、頼りない手摺を越えて、彼女は落ちる。
 連続してシャッターを切るように、覚えている。
 僕の威嚇以外、すべてがスローだった。
 彼女の見開いた瞳の色。広がる栗色の髪。包むクリーム色のコート。翻る青いスカート。挙げられた腕。何も掴めないまま。雪が敷かれた地面に。彼女は落ちた。
 落下した瞬間、舞い上がる粉雪が、木漏れ日に似た光を浴びて輝いた。
 僕が見る世界が、その一瞬、輝き放った。
 それが美しいと、感じた。
 すぐにカメラを構えた。
 シャッターを切った。
 写真を撮った。 
 きっと、僕が死ぬ間際に思い浮かぶ、綺麗な一瞬を
 僕の心と黒いフィルムに閉じ込めた。



 5

 机に、裏返しに置かれた写真を、表にする。
 白色。散りばめられた結晶。鮮やかな楕円の赤色を枕に横たわる、ミユ。
「ミユが手摺に寄りかかったら、老朽化して脆くなってたんでしょうね、手摺が壊れて、滑り落ちたんですよ。………話は、これでおしまいですよ、サキタ先輩」
 サキタ先輩は話を聞きながら、目を瞑ってタバコを吸っていた。灰皿には吸い殻で歪な五角形が出来ている。
 僕は残り少ないコーラを飲み干して、小さくなった氷を一つ口に含んだ。
 先輩は短くなったタバコを灰皿に押し付けて、机の方に向けて紫煙を吐いた。それからゆっくり顔を上げて、僕を見た。なんだか取り調べを受けてるような気分になるような眼差し。
「……忍。この写真、貰っても良いか」
「はい。先輩になら良いですよ」
 僕は、先輩に写真を渡した。受け取ると、写真を一度感慨深そうに見てから、ジャケットの内ポケットに仕舞った。
「なんでしたら、もう一枚あげましょうか」
「いや、これ一枚でいい。ネガはオマエがもっとけ」
 サキタ先輩は立ち上がって、伝票を手に取った。僕はすぐに財布を出そうとすると、先輩はそれを片手で制した。
「その写真、どうするんですか?」僕は座ったまま、少し見上げて尋ねた。
「渡すさ、この子の父親に。多分な……」先輩は俯き気味に視線をさげて低い声で言った。「………いや、今はまずいだろ。もう少し、いつか渡してやるよ」
「お願いします。僕が渡すと、脅迫みたいなんで」
「だろうな。気をつけろよ」
 先輩が僕の頭を撫でた。サキタ先輩流のお別れの挨拶みたいなものだ。
「じゃあ、三守に……、今は違うか。校長先生によろしくな」
 そう言い残して、サキタ先輩は三守ミユの写真を持って、カンターに向かった。
 僕は残りの氷を噛み砕いて、コーラのお代わりを注文した。
 そして、現像されたばかりの写真を眺めながら、城阪さんにメールをして、ここで待ち合わせる事にした。もしかしたら、城阪さんの恋人は、メルヘンな衣装を着て一緒に来てくれるかもしれない。そしたら、写真を撮らせてもらおう。
 そんな幸せな予感に包まれながら、愛しい写真の中の恋人を眺めた。
 二次元に投影され閉じ込められた人。
 まるで鳥籠の中のお姫様。
 どこにも、飛んでいかない、僕だけの美しい恋人。


                            (了)





 

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