第1章 異色ドロップス わたしは何色? あなたは何色? 違いすぎるかしら? その違いってなに? 違いがあると合わない? 違うから、一緒になれる。 同じだから、一緒になれない。 そんな理屈、誰の押し売り? 1 「第十三回。写真部定期ミーティングを行います!」 高々と宣言。 「本日の議題は、文化祭での、我が部の出展作品についてですが………」 僕の声が、空しく響く。 伝達できる音量で、疎通できる言語で喋っているはずなのに、聴いてはくれない。まるで倉庫のような部室。ホワイトボードの前に仁王立ちして見下ろす部長の僕を、一瞥すらせずに雑誌を眺める部員二名。 「うわぁ。やっぱ良いですねー、夏弥(なつみ)ちゃん。うっとりですよー」 粘性の高そうな口調で喋る、マイナな雑誌のグラビア写真に見蕩れる一年生の籠井(かごい)シノブ君。 「いいな。木間先輩、うらやましッスよ」 「そうか? 俺はあんまり、実感ないんだけどな。興味ないし」 本当に興味無さげな応答する、だけど、後輩の妄想にはちゃんとつきあう三年生の木間(きま)サキタ。 部活動の時間。ミーティングの最中。彼等の興味は、目の前の僕より、写真の人物に、呆れるほどすっぽり嵌っている。 彼等が見ている写真は、マイナなブルセラアイドル・桃瀬(ももせ)夏弥の水着写真。この雑誌では人気があるらしく、彼女の写真は四ページほど掲載されちる。 籠井君が、サキタの事をうらやましがる理由は単純明快。桃瀬夏弥は、木間サキタの彼女だからだ。でも当のサキタは、そんな優越感はないらしい。 「籠井君。それとサキタ。二人とも、部長が話をしてるのだから、顔ぐらいこっち向きなさい!」 ホワイトボードを叩いて注意を促すが、効果なし。 「聴いてますよ、部長」雑誌を凝視しながら答える籠井君。 「そうそう、それにもう文化祭で掲示する写真のテーマ? 決まってるよ。なぁ、籠井」 「そうです」 長テーブル越しに、まったくやる気を表さない部員二名。だから、どんな楽観的発現も、どうも信用成分が足りない。 「では、そのテーマ、聞かせてください」 僕は、二人のテーマを書くために、マジックを持ってホワイトボードに向き直った。ホワイトボードは、その名の通り、まだ真っ白。 「ワタクシは、海岸沿いの萌え、を」 「俺は、ラーメンに漂う油の優美、を」 一文字すら書かなかった。 「君たちっ、もうちょっと真面目に生きなさいっ」ホワイトボードを叩いて、平和的に抗議する。 「真面目ですよ、部長。少なくとも、幽霊部員の城阪(きさか)よりワタクシたちは真面目ですって」僕の抗議に抗議する様に立ち上がって訴える籠井君。 「城阪さんは、生徒会があるから遅れるそうです。それに城阪さんは、ちゃんとテーマも決まっています。ちゃんとしたテーマです」 「部長。贔屓してませんか?」 「贔屓して欲しいなら、それなりの事をしてください」僕は視線を、籠井君からサキタに移した。「サキタも、三年生なんだから、何か言ってよ。顧問の三守(みかみ)先生が放任主義なんだからさ。っていうか、お願いだからアンタだけは、ちゃんとやってよ……」 元からミーティングに興味もなく、雑誌にも飽きて手元のデジカメを弄んでいるサキタ。奔放と云えば微笑ましいのだけど、浮き雲のように飄々としているのだから、頼りない。ホントはもっと頼りたいのに。 「なんだよ、ちゃんとやってるだろ。そもそもあのオッサンは何やってんだよ、近々校長に昇進するらしいからって浮かれんじゃねぇのか。来たら木たらで娘の写真見せびらかして身内自慢しやがるけど、アイツこそちゃんと顧問らしい事やれてよ。っていうかオマエはどうなんだ。テーマはなんだよ」 目を細めて、睨むようにサキタが僕を見る。思わず身体が退いてしまい、背中にホワイトボードが当たった。 「………テーマは……」僕の視線が、部室のドアの方に逃げる。 「……まだ、ない」 そう言うと、予想通り、籠井君とサキタがブーイングを放った。その大音量に目を瞑って、しばらく耐え忍んだ。 「散々文句だけ言って、自分は何も決まってないのかよ。それでも部長か? 部員に説教する前に、自分のことをちゃんとやれよっ。……俺らにばっかり気を回して、自分は出来ませんでしたなんて、やめてくれよ」 サキタが立ち上がって、身を乗り出して怒鳴る。 僕はそれを視線を逸らして堪えた。 「………分ってるよ。だから、なにもそこまで言わなくてもさ………」 「分った分った。それで、本当にまったく何も決まってないのかテーマ?」 サキタは椅子に座り直して、僕をじっと睨む。籠井君の視線も、僕に向けられた。 テーマ……、か。考えていない訳ではないけど、どうも定まらない。まさか、本当にまったく決まってません、なんて言ったらサキタがまたなんて言うか、僕の心は堪えきれないかもしれない。もし、時間が足りなかったら、過去の写真を纏めて、それを展示しようかとも考えた。 僕は、二人の正面に座った。腕を組んで、俯き考えた。ふと、机の上の雑誌が目に入った。ちょうど桃瀬夏弥の水着写真のページが開いてあった。とても、鮮やかな写真。どうやったら、こんな写真が取れるのかな……、と思考が横道にそれかけた時、部室のドアが開く音が聴こえた。 三人の顔が、ドアの方に向く。 「遅れてすみませんでした」 そう言って入って来たのは、一年生部員の城阪さんだった。長い黒髪と大人しそうな挙動と性格が、いかにも優等生な雰囲気を醸し出すこの写真部で一番頼りになる真っ当な後輩。 「あ、ちょうどよかった、城阪さん」僕は立ち上がった。「今ね、文化祭のテーマについて話しあってたんだけど、城阪さんはもう作品できた?」 僕が尋ねると、横からサキタが「おい、おまえはどうなんだよっ」という抗議の声がした。 「あ、の……、部長。それよりも、実は、お客さまが……」 顔を軽く傾けて、困っているね、と分るぐらいの表情で城阪さんが、言い終える前に、城阪さんの後ろから、 「おっじゃましまーす」という声と共に、部外者が部室に入室した。 その部外者に対する、城阪さんを覗く部員三名の反応。籠井君は立ち上がり両手を上げて歓喜の叫び。サキタは笑顔で片手を上げる。僕は、密かに「ッち」舌打ち。 「あれ、お邪魔だった?」言葉とは裏腹に、部外者は無遠慮にずかずかと部室に入って来た。 日本人形のように切りそろえられた長い黒髪、ぱっちり二重の両目。小柄で、ほんのり紅潮した頬と緩やかな曲線で作られた輪郭で、実年齢より五歳は幼く見える。 「あ、それ私の写真だっ。もうー」 机の上に放置されている雑誌を指差す部外者、桃瀬夏弥さん。この部室内では、籠井君に次ぐテンションの高さ、そして一番の行動力を持って、この場をかき乱す。 「ナツミ、どうしたんだよ」彼氏のサキタが、落ち着いた口調で尋ねた。 「え、一緒に帰ろうと思ったの。ダメ?」首を三十度ぐらい傾けて、桃瀬さんは言う。同時に、ファン(籠井くん)の握手に応じている辺り、プロっぽい。 「わりぃ。今、ミーティングしてんだよ。ほら、文化祭で展示する写真のテーマ」 サキタが僕の方を、つまり何も書かれていないホワイトボードを指止して言った。すると、反射的に桃瀬さんの顔が、こっちに向いた。 目が合った。 僕はすぐに直ぐに視線を逸らした。 「ふぅーん。まだ何も決まってないんだー」悪戯っぽく語尾を伸ばす言い方。 なんだが、酷くバカにされた気分がして「桃瀬さんは、写真部じゃないから、関係ないでしょ」とつい言ってしまった。 その時、また目が合った。 綺麗な目。プリズムみたいな瞳。綺麗なカーブの瞼。昔の大女優を連想するほど、羨ましい視線。 「そうね。私、写真部じゃないわね」感情のよめない表情で、ゆっくりと何かを品定めするように、僕に近づいてきた。 「ねぇ、もうテーマって決まった?」そう桃瀬さんは、たしかに僕に尋ねた。 僕は、「まだだけど……」と軽く顔を横に振った。 すると、桃瀬さんは、グラビアのような笑顔で言った。 「だったら、わたしを撮って」 彼女以外の呼吸音が、二秒、途絶えた。 「私をモデルにして」 2 僕こと緑沢(みどりさわ)トウは、桃瀬夏弥が苦手です。 殺意を抱くとか、憎いとか思ってないけど、嫌いじゃないってハッキリと言える程好きでもない。なるべくなら、会いたくはない部類の人。そう、部類が違うのだ。桃瀬さんと僕は、立ち位置が違う。キャラが違いすぎる。文化が違う。価値観が違う。考え方が違う。性別が違う。 一目惚れ、という言葉があるけど、それでいうなら、きっとこれは一目バリアだろう。拒絶反応が、髄反射のごとく間合いを必要以上に取りたい。 桃瀬が悪いわけではない、これはあくまでも僕個人の主観なんだ。 だから、彼女を非難することも、陰口を言うこともしない。 彼女は悪くない。そんなの分ってるよ。 桃瀬夏弥は、マイナなブルセラ系雑誌のモデル。そのため、よく学校を休んだり、早退することもある。それを抜きにしても、彼女の自由奔放な性格のせいか、あまり素行は良いとは言えない。夜にクラブに入り浸ってる。ウリをやってる。五人の男にブランド品を貢がせている。ヤクチュウ。などなど、真偽を疑わずに広まっている彼女に対する悪評で、関わりたくない人として学校では有名なのだ。 でもそんな噂なんて、僕はもちろん信じる気はない。サキタの彼女だから、という理由ではなく、サキタと一緒にいる桃瀬さんを見ていれば、腹が立つ程思い知らされた。何度も、何度も。 嫌いじゃないけど、好きにはなれない。 肩を並べるなんてできない。いつも、間合いをとって向き合ってる。僕だけ、一方的にそう思ってる。 その桃瀬夏弥さんから「私をモデルにして」と言われて、僕は悩んでいる。 今まで、風景写真ばかり撮っていたから、人物も撮りたいと思っていた。好都合だと思う。だけど、桃瀬さんをモデルに、というのが悩みだ。だから、少し考えさせて欲しい、と彼女に言った。 桃瀬さんは、マイナな雑誌のモデルと言っても、プロだ。プロのモデルを撮影できる機会なんて、そんなにある事じゃない。願っても無い条件の筈なのに、どうしても撮る気になれない。 怖いのかもしれない。 翌日の昼休み。屋上にサキタを呼び出して相談した。 「どうして、サキタじゃなくて………僕なの?」 「さぁな。ナツミの考えることはよくわからん。俺がこんなこと言うのもなんだけどさ。それに、俺よりもトウの方が、あいつのこと綺麗に撮れると、俺は思ってる。多分、ナツミも分かってると思うぞ。あいつ、人を見る目は確かだからさ」 「それって惚気? それとも自慢」 さぁどうだろねと、手摺に寄りかかりながら空を見上げ、サキタは飄々とした口調で言った。 サキタの栗色の髪が陽射しに透けて黄金色に見える。黄昏の麦畑のような穏やかなグラデーションを、フィルムに焼き付けたかった。 「でも………、サキタは嫌じゃないの?」 サキタの斜め後ろに移動して、彼の横顔を見た。削られた頬の影のせいで、まるで彫刻のような硬質感をサキタの顔に塗り込まれている。陽に焼けたきつね色の肌には、汗の雫が垂れていた。 まさかと云い、溜息をつくように微笑んで、サキタは片手を振った。 「そんなことでいちいち嫉妬してたら、身がもたねぇって。ま、これが写真のモデルじゃなくて、浮気の相手だったら、そりゃ流血覚悟で怒るけどさ。………トウはさ、あいつのこと、嫌いか?」 陽射しに向いていたサキタの身体が、僕の方に向きをかえた。体格のいい彼の身体の影が、僕の小さな身体にかかる。逆光のせいか、憂いを帯びた表情に見える。 サキタの質問に、一瞬、息が詰まった。 頷きそうになって、ドキリとしながら、我慢した。 そんなことない、と呟いた。サキタの目を見る事が出来なかった。見られたくなかった。 「じゃあ、なんで悩んでんだ?」 「それは………」 僕は、やっぱりサキタの顔を直視できなかった。彼の目を見たら、きっと、その答えが立ちはだかって、言えないと思った。言えない答えなら、見たくもないから、僕はサキタの代わって、空を見た。 眩しい陽射し螺旋。刺激的な斜光で、きっと魅力的な影がどこかで生まれているはず。それもたぶん、誰かに見られることなく、崩れてしまう。一瞬で。ここに居るよと叫ぶ事無く、何一つ主張することなく、伝えることなく、ひっそりと消えてしまう。一瞬だけ、僕も影になりたいと思った。 「暑いな。もうすぐに夏休みだな」 「そうだね」 「飴ってさ、何度ぐらいで溶けるんだろうな」 「え、なに?」 「飴。あるんだけど、食べる?」 サキタがポケットから取り出した飴を、僕に差し出した。 透明なビニルにくるまった赤、緑の星の型をした飴玉。薄い色が、中心の宝石のような色を包んでいるよう。見ているだけて、口の中が甘くなりそうな濃い赤色と緑色。いちご味とメロン味。どちらもイメージの色。本当は、苺もメロンも、赤一色でも緑一色でもない。ほんの一部がそうい色をしているだけ。人が見ているのは、ほんの一部でしかない。 僕は、悩んで赤色の飴を貰おうと、手を伸ばした。 その時、あの声が聴こえた。 「あっ、こんなところにいた!」 眩しくて顔をそむけたくなるほどの、明るい声。桃瀬さんだ。きっとサキタを探していたのだろう、彼をみつけると一直線に近づいてきた。 「もうっ、すっごく探しんだぞ!」 頬を少し膨張させて、上目遣いでサキタを睨みながら、つめよる桃瀬さん。羨ましいほど、表情豊かな人。それでいて、それが一枚の写真に納めてガクに納めても、申し分ない。本当に、彼女が羨ましい……。 そんな彼女を、慣れた風になだめるサキタ。 二人の姿は、微笑ましいけど、見ていると辛くなる。 孤独だ。二人が遠く感じる。 「あっ、飴っ。一つ貰っても良い?」 「え、あ、ああいいけど………」 「じゃあ、赤いの貰うね」桃瀬さんは嬉しそうに、サキタの手から赤い飴を掴んで、、直ぐにビニルを剥がして、小さな口の中に、入れた。 「あぁ………、悪い、トウ。こっちのメロン味のほうでいいか?」 サキタは苦笑いを浮かべて、残った緑色の飴を差し出した。 本当は、赤色の飴の方が良かった。赤色は好きだから。でも僕よりも、赤いストロベリー味の飴は、桃瀬さんが似合っている。女の子らしい、薄い赤色は、彼女に似合っている。いくら好きでも、僕には似合わない色。そう思うと、なんだか悲しかったり、恥ずかしかったり、腹がたったりもした。 「ごめんね。わたし、この色大好きだから」 サキタの首に腕を回して、背中に縋るように寄り添いながら彼女は言った。とても真似できない可愛らしい桃瀬さんの笑みが、たまらなく苦しかった。 僕は、サキタの手から緑色の飴を貰って、口に含んだ。 今、僕はどんな表情を浮かべているのかな。 「ねぇ、緑沢くん」すました様な表情で、桃瀬さんが僕を呼んだ。 「あの話、引き受けてくれる?」 桃瀬さんが軽く頭を傾けると、作り物のような長い黒髪がさらりと揺れた。 あの話、とは言うまでもなく、モデルの件だろう。 「ごめん。………もう少し、考えさせて。ごめん」 彼女の顔を見る事無く、そういい残して、僕は屋上から…、二人から逃げる様に去った。 どうしてか、自分でも分らない。自分の事だから、分らないのかも。 迷う理由なんて、ないはずなのに。 むしろ嬉しい提案のはずなのに。 僕は、答えを出せなかった。 認めたくない事があるから、きっそそれを口にしたら、壊れてしまいそうだから、どうしても、言えなかった。理由なんて、本当はずっとまえから分ってたくせに。 3 午後の授業は、何を習ったのかも思い出せない程、自己嫌悪に浸っていた。その後の掃除の時間に、僕はゴミを捨てに外に出た。きっと息苦しかったからだ。 両手にゴミ箱を下げて、収集所に向かう途中、あの声が聞こえた。 「緑沢くーん」羨ましいほど澄んだ声。 その声に僕は振り返ると、桃瀬さんが鞄を持って走っていた。まだ下校には三十分ほど早い。 「ど、どうしたの?」 僕が尋ねると、桃瀬さんが答える前に、校舎から桃瀬さんを呼ぶ怒鳴り声が聞こえた。そっちの方を見ると、先生が桃瀬さんに「待ちなさい。まだ謹慎の反省文書いてないだろ!」と怒鳴っていた。 「っち」桃瀬さんが、ものすごく不遜な表情を浮かべて舌打ちをした。 「え、謹慎って、どういうこと?」 僕が尋ねると、桃瀬さんはいつもの美少女の表情になって言った。 「タバコ。誰かがチクりやがった」乱暴な言葉で、だけど飄々と口調。「わたし、嫌われ者みたいだし」 そんな事なんでもない事のように、彼女は言った。 反省していないように見えるけど、僕は、そんなことあっさり認めて簡単に言える事がすごいと思った。 風が吹いた。 桃瀬さんが、笑顔で手を振って、校門に走っていく。 風が吹く。 流動する様々。 風が、彼女に触れると、鮮やかに彩られて僕に届く。 彼女はそんな人だ。 羨ましいほど可愛いくて、歯痒いほど鮮やかな暖色が似合う。 綺麗な女の子。 彼女は軽やかに、閉じられた校門を乗り越えて、柵の向こうに着地して、振り返った。まるでその柵が、僕と彼女との決定的な違い、絶望的なまでに隔てる壁に思えた。 陽射しと風にさえ愛されて、不敵に微笑む彼女。 「ねぇ、緑沢くん」 声までも、暖かく、 「私を撮って」 力強くて、眩しいほど鮮やか。 「私、あなたに撮ってほしいの」 自信に満ちあふれて、曝け出された気持ちさえ、とても美しい。 憧れにも似た、感情。 嫉妬した。そんな素直な彼女に。 悔しい。 自分が好きな色が似合わない僕。 自分が好きな色が似合う女の子。 彼女に、すごく嫉妬した。 すごく悔しくて、だから、負けたくないから。 「わかった。撮るよ」 僕は、彼女にそう言った。 宣戦布告だ。 立場は違えど、これはきっと、戦いなんだ。 僕は、桃瀬さんだけには、負けたくない。 だから真っ向から、彼女の挑戦に受けて立つ。 4 日曜日。僕は、桃背さんの自宅を訪れた。 型抜きされた様なマンションの五階の端。呼鈴を鳴らすと、鮮やかな私服の桃瀬さんが出て来た。桃色のキャミソールに七分裾のジーンズ。とても身軽で涼しげなだった。 案内されたのは、彼女の部屋。招かれるように、開けられたドアをの向こう側に入ると、僕は一瞬、目眩がした。 部屋の八割以上が、ピンク。可愛らしい小物に、ぬいぐるみ。壁にはアイドルのポスタ。中世欧州風のベッド。雑誌で見た事がある衣装を着せた首のないマネキン。天井には星型の蛍光シールがたくさん貼られていた。とても、女の子らしい、いや、彼女にとても似合っている部屋だった。まるで、彼女の中に入った、そんな錯覚すらした。 「えっ…………、ごめん、今、なんて言った?」 「だ・か・ら、ヌード」 ベッドの上で胡座を組んでクッションを抱きかかえながら、桃瀬さんが言った。まるで、今日はいい天気だねぇ、とでも言うような軽さだ。 「聞いてないよヌードなんてっ」 当然僕は、怒った。ひどくバカにされた気分だ。 「言ってないもん」なのに桃瀬さんは、飄々としている。 「当たり前だっ。そんな……、ヌードなんて聞いてたら、断ってたよっ」 僕はカメラを鞄に納めて、立ち上がった。 「これは文化祭に展示する写真なんだ、桃瀬さんが載ってるブルセラ写真誌とは違う。あんな……、汚いオトナの性処理につかわるような写真じゃないんだっ。あんなの金以外の価値がなにもない下品なものと、僕の写真を一緒にしないでくれっ」 屈辱だった。 ヌード写真という桃瀬さんの案が、まるでそうでも言わないと僕が撮る写真は価値がないと馬鹿にされた気がした。 ただの遊びのつもりなのかもしれない。 でも、僕は真剣だ。ただふざけて写真を撮るなんて出来ないし、僕は許せない。そんなの、被写体に失礼だ。写真を撮る事が好きで、美学だって、思想だってある。たかが高校生の部活だって言われるかもしれないけど、それでも、遊びでも仕事でもないから、撮りたいものがあるんだ。 屈辱だった。 「そんな下らないもの撮りたいなら、サキタに撮ってもらえよっ!」 桃瀬さんに馬鹿にされたのが悔しくて、怒鳴ってしまった。 お腹の辺りを締め付けるような痛みを感じて、僕はこの彼女の色に囲まれた部屋から出ようとした。 けど、 「わたし、本気だよ」 桃瀬さんの声に、捕まった。 振り返ると、綺麗に整った顔で突き刺さるような辛辣な眼差しを僕に向けていた。 「わたし、今度の撮影でヌードになるの」 静かに、彼女は言った。 「桃瀬夏弥って、童顔でロリータ系で通ったから、今まで脱がずに済んだけど、さすがにもう十八だから、それじゃ続かないの………。水着の次はセミヌード、ヘヤヌードって、どんんどん過激になっていって、最後はヌード。その前に、撮ってもらいたいの。………汚いオヤジに汚される前の、まだ綺麗な姿を、残したいの」 頭が痛くなる程、彼女の声は、尖鋭的だった。 息を飲む程、彼女の何かを覚悟した意志と、プライドを感じた。 だから、僕は尋ねた。 「僕でいいの?」 僕が君の、最後の純潔を撮ってもいいの? ベッドの上に座っている綺麗な女の子は、とても僕には叶わない笑みを浮かべて、頷いた。その笑顔こそ、フィルムに納めたかった。 美しいと、僕は感じた。 「撮るよ」 それだけしか、言えなかった。 カメラを取り出して、レンズを彼女に向けた。 ベッドの上で桃瀬さんは、一瞬躊躇って衣服を抜き出した。キャミソールの紐が細い肩から滑り、腰の辺りまで落ちる。ズボンの大きな留め金が外れ、小さな鈍い断続的な金属音と共にチャックが下ろされる。投げ出す様に両足を伸ばす。布と肌が擦れる音。キャミソールとジーンズを脱いで無造作に部屋の隅に投げた。そして、下着姿で両膝を抱えて座った。 「白状するけど、サキタにだって見せた事ないんだからね」 微かに上気した頬を緩ませて、不安定な微笑みを浮かべて桃瀬さんは言った。 でも、直ぐにその笑みは修正され、モデルの微笑みになった。 シャッターを切るその一瞬、フラッシュで煌めく彼女の虹彩に、寒気がした。 「さっきの話。………ヌードになるって、サキタは知ってるの?」 ファインダ越しに、ブラジャの留め金を外す彼女に尋ねた。 「まさか。サキタは一般人なんだから、そんなこと知らなくてもいいの。……それにあいつ、妬いちゃうよ、きっと」 その一瞬だけ、彼女はモデルから、サキタの彼女の表情に戻った。たった一瞬でも、否定し難い瞬間だった。 ベッドの上の彼女をやや見上げる角度にカメラを構え、彼女の艶やかな髪が撫でる微かに桃色の乳房にピントを合わせから、わざと幽かにぼかしてシャッターを切った。 「もし、サキタが知ったら、どうする」 彼女は最後の一枚を、立ち上がって脱ぎ捨てた。 「撮影が終わったら……」 窓際のベッド。夏の卑猥な陽射しが差し込み、彼女の輪郭を霞める。 きめ細かい白肌。作り物のようなフォルム。微かに朱色で、瑞々しさが充◯されている体。鎖骨から乳房をなぞり、へその辺りで引きつけられ、骨盤辺りで大きく離れ逸れるラインが、僕には視えた。 心拍数が速度をあげている。 カメラを握る両手に汗が滲む。 自分の体温が、陽射しと彼女のせいで上昇しているのが分った。 ファインダを覗く右目が、痺れてしまいそう。 彼女の喉から上に、レンズを向けることに躊躇った。 だから、 「サキタとは、別れるわよ」 桃瀬さんがどんな表情で、それを言ったのか分らなかった。 ベッドに寝そべった時、すでに彼女は気怠そうな表情をしていた。もちろん、それはモデルの表情ではないのは直ぐに分った。分ったから、無性に苛々した。 どうして、そんなにあっさり、捨てられるんだよ。 「そんなの……」 どんなに望んでも手に入らないものを、どうして彼女は、簡単に……諦めらめてしまうんだ。 「……そんなの、サキタが可哀想だ」 ファインダ越しに、彼女を睨んだ。 枕元に隠してあったタバコを手に取って、桃瀬さんは胡座を組んで座った。細い紫煙を吐きながら、髪を払った時、彼女は怪訝な表情を浮かべて僕を見下ろした。 「ねぇ、緑沢くん……」 冷たい眼差しを向ける彼女は、モデルではなくて女の表情をしている。 「さっきからサキタサキタって、わたし越しにサキタばっかり見てるでしょ」 桃瀬さんがマットに手をついて、前屈みになる。艶やかな黒髪に覆われた乳房が迫り、上方から彼女の顔が視界を覆った。 「ねぇ、もう素直に全部言っちゃえば。腹割って話そうよ」 そう言って片手で、僕の顔を隠していたカメラを無造作に押し下げた。 「私、全部脱いで隠さずにいるんだから、あんたも全部曝け出して、隠し合いはやめにしよ」 目の前に、桃瀬さんの顔。 綺麗な虹彩で睨まれて、でも表情はとても穏やかに微かに挑発的。 まるで僕の心を見透かして、見下しているようだった。 だから僕は、怖かった。 だから僕は、痺れた。 だから僕は、悟った。 だから僕は、諦めた。 だから僕は、悔しかった。。 だから、 「好きなんでしょ、サキタが」 僕は、泣きたくなった。 自分でも認めたくないものを、 気付かないふりをしてたのに、 誰にも気付かれたくなかった、 秘密にする前の気持ちを、 どうして、 よりにもよって、 一番、知られたくない人の彼女に、 「ずっと見てたんだから、分るよ、それぐらい」 優しく、見抜かれるなんて……。 悔しくて、情けなくて、恥ずかしくて、苦しくて、気持ちがメチャクチャにかき混ぜられてしまったみたいに、訳分かんなくなって、気付いたら叫んでた。 「好きだよっ サキタが好きだよっ、悪いか!」 叫ぶと、重たい水飴が抜けていく様に体が軽くなって、鼻の奥がつんと痛かった。頬が暖かくなってるのに気付いて、俯いたらピンク色の絨毯に涙が零れた。 「そっかーーー、……」 昇っていく様な声が聞こえて、僕の頭を撫でる小さく暖かい感触。顔を上げると、桃瀬さんはベッドに跳び乗って、笑った。 「わたしたち、同じだね」 少し傾けられた顔には、長い黒髪をより艶やかにして透き通る夏の陽射しより、鮮やかに輝き放つ笑みが浮かんでいた。 すぐにカメラを構えた。 涙のせいで手が震えて、ピントがぼけていないか分からないけど、僕はそのままシャッターを切った。フィルムにどう写ったか分らないけど、僕には、その笑顔が焼き付いてしまった。 「おかしいかな、やっぱ、こういうのって……」 「おかしいわよ。……だからって、みんなに変だとかおかしいとか言われ、好きなのに嫌いになろうなんてするのは、もっとおかしいよ」 寝そべりながら細いタバコをくわえて、彼女は妖しげに微笑んだ。 僕は、ピンク色に囲まれた桃瀬夏弥を、撮った。彼女が抱いているプライドや美しさの欠片さえ逃さないように、狙いさだめて、シャッターを切った。 「好きなんだから、しかたないじゃん」 5 一学期の終業式の後、桃瀬夏弥が退学届を提出したことを顧問の三守先生から聞いて知った。仕事の事が薄々学校側に知られてきたからというの噂だった。 僕は、サキタを呼び出して、ヌード写真の事を伝えた。どうしても伝えなくてはいけないと思った。 数秒唖然として、歯を食いしばって頭を掻きながら「クソっ」とサキタは言った。数秒の苛立ち。でも、その後は急速に冷静になって、溜息をついた。 「急に別れるとか言いやがって。そういう理由かよ……」 「ごめん、サキタ。黙ってて……」 「トウは悪くない。ありがとな」 ぽんと僕の肩を叩いて、サキタは離れてしまう。きっと、彼女のクラスに向かったのだろう。サキタの後ろ姿は、縋ってでも止めたくなるほど勇ましかった。そういえば、桃瀬さんは、その背中によく寄り添っていたっけな………。 サキタと別れ、僕は自分のクラスに戻る。その途中、錆ついた校門をよじ登る桃瀬さんを見つけた。 一階の窓から外に飛び出て、彼女の名前を叫びながら駆け寄った。 陽射しを拒絶するような純白のワンピースの裾がひらりひらりと揺れて、彼女は門の向こう側に着地して振り返った。そして、じっと柵の向こう側を見つめながら言った。 「撮影したよ」 柵が、絶望的に思えた境界線が僕と彼女を隔てる。 それでも、声が届くならと僕は言った。 「なんで……、なんで簡単に手放すんだよっ」 褐色に錆びた鉄格子に握り、彼女に向けて声を荒げた。 「同じじゃなかったのかよっ。好きなんだろ、サキタが。なのに、なんで……諦めるんだよっ」 静謐な彼女の瞳はずっと、不細工に叫ぶ僕を真直ぐ向けられたまま。 「ずるいよ………、勝ち逃げなんて。……やっと素直に自分の気持ちに向き合って、これからだっていうのに………、これから負かしてやろうと思ったのに、あっさり手放しやがって………。ずるいよ、桃瀬さん……卑怯だ、こんなやりかた……敵いっこないじゃないか……!」 勝負なんか意味ないけど、僕は挑み事もしない内に、負けは分ってた。 僕の気持ちは、きっと、叶わない。 そんなこと知ってる。分ってるよ。 だから、せめて、好きな人の幸せを祈っていたかった。 なのに、そんな小さな願いさえ、彼女は許してはくれない。 僕の大好きな人に、愛された彼女は、きっと、まだ彼の事が好きなのに。 愛されたまま、彼の愛情をごっそり抱えたまま、別れた。 敵いっこないじゃないか、そんなの。 彼はまだ彼女が好きで、それなのに離れてしまう彼女を忘れるなんて出来る程、サキタは単純じゃない、冷たい人じゃない。 だから好きなんでしょ、桃瀬さん。 ベクトルが違う僕と彼女の向かう道。 反対色の僕と彼女。 桃色の彼女と、緑色の僕。 男の子と女の子。 全く違う僕達なのに、どうして同じ人が好きになってたんだよ。 「緑沢くん……。わたし、何も諦めてないから」 溶けていく静謐。陽射しを纏う笑みを浮かべた桃瀬さん。 「もっとすごいモデルになるから………。絶対にまたサキタを手に入れるから…。盗れるものなら盗ってみなさい!」 不敵に笑った。その笑顔は、綺麗だった。 眩しいほど輝く虹彩が、僕の目を焼きつける。 「男だからって、容赦しないからね!」 本当に、彼女は、綺麗だった。 「ああ! 望むところだ!」 負けじと言い返すと、彼女は高い声で笑った。 校門の格子の間から手を伸ばして、僕は写真を一枚、彼女に渡した。 受け取って写真を見た彼女は、挑発的に口端を釣上げた。 「写真、また撮ってやるよ!」 僕の背後から誰かが駆け寄ってくる音がした。 その前に、僕はもう一度腕を伸ばした。彼女も差し出す様に伸ばした。 握手はしない。僕たちはそんな仲じゃないから、ゴング代わりに手を叩いた。 きびすを返して走り出す彼女は、綺麗なままだった。 最後に撮った一枚。 幼い裸体で、純潔を抱きしめる微笑む桃瀬夏弥。 それを挑戦状代わりに彼女に渡した。 「おい、今のナツミだっただろっ」 サキタが駆け寄ってきた。 「トウ。あいつと何話してんだ」 乱れた呼吸のまま、穏やかな口調でサキタは尋ねた。 微かに見上げるように僕は、彼の顔を見た。力強い眼差しは、まだ彼女に向けられたままなんだね。それがなんだが、ちょっぴり悔しかったから、意地悪な気持ちになった。 「ヒミツ」 「なんだよ、ヒミツって」 「ヒミツはヒミツ」 「それ、俺には言えないことか?」 「ちがうよ。言えるようになるまで、もう少し待ってて」 もう少しした僕の気持ちのピントが定まりそうだから、 そうしたら、写真にも写らないほどの気持ちを言うよ。 感光するからそれまでヒミツ。 現像まで、もう少し待ってね。 必ず、この気持ちを見せるから。 (了) |
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